中小企業診断士資格取得(1)

中小企業診断士の資格取得を今年の目標の一つとした。現業務との相関性が高いのと、ある程度経営まわりの能力と経験値の証明になり、今後のキャリアアップに寄与するものであると考えたのが理由である。

2024年度の合格を目指す。(二次試験は来年1月)

通勤時間で二宮金次郎化。やってみると、仕事の前後に脳の働くところが切り替わって良い感じだ。

実際に勉強を始めてみると、(少なくとも企業経営理論の項目は)、斬新な考え方やフレームワークが学べるわけではなく、ごく一般的な経営理論や用語の説明がメインだった。おそらくは企業経営にかかわる「一般常識」の取得を目指す資格なのであろう。

とはいえ、半ば忘れかけていたジャンルもあるし、新しく学ぶことも無くはない。網羅的に体系立てて「一般常識」をさらえるのは悪くない。

 

こちらは早々に目途をつけ、その後の「弁護士試験」「MBA」の取得へ進みたい。

 

学歴・職歴、そして資格。それらはすべて、「能力」の証明である。中小企業診断士に合格できる能力を持っているが中小企業診断士の資格を持っていない人と、中小企業診断士の資格を持っている人の間には能力の差はない。だが資格を持っている人はそうでない人に比べて就職し易いし、その資格に適したポジションを取得し易い。それは資格が能力の「証明」になるからだ。誰かに向けて能力があることを証明するためのコストが大幅に下がるのだ。

なので、資格取得のために時間を費やして勉強することは、逆説的ではあるが時間を買うことにもつながる。証明が難しい能力ほど価値が高いのだ。

人生は有限であり、自分の能力の証明や他人の能力の見極めに長い時間を費やしている暇はない。一方で、試験を経てその能力の証明を手に入れることになるので、知識に関してはある程度正確に評価できるものの、実務能力だったり、対人コミュニケーションの能力は分からない、というリスクもある。

 

というわけで早速企業経営理論の勉強の一科目目が終了。次は財務・会計である。

限られた時間をどう過ごすか、という話

人生が拡大した。自分だけのそれではなく、妻と子供も含めた家族の幸せが目的となった。

 

そんな中、自分の人生の有限性に関してかなり強く意識するようになった。いつか終わりは来る。ならばどう生きるべきか?

そんな中で、遅ればせながらDie With Zeroを読んだが、「何のために生きているのか」を真剣に考える良いきっかけになった。とかく日本人は幸せを先延ばしにする傾向があると思う。自己犠牲の精神なのか分からないが、苦しかったり、気が進まないことをする理由はただ一つ、課題を乗り越えるなり問題を解決するなりして、より楽しい時間を過ごすためだ。それがいつの間にか、苦労がルーティーンになり、週末を楽しみに平日を頑張り、週末は休息と回復、そして月曜からまた頑張る、、などというサイクルになるのは本末転倒。

 

苦労は良いが、その成果として、いつ楽しみ、幸せを感じるのだ?

 

このことを改めて真剣に考える良い機会になった。

 

また、堀江貴文さんの「多動力」も先ほど買って読んだ。(この手の「誰かの"生き方"を書いた」本はkindleでサクッと一時間程度で読めるし、日々の良い刺激になるので定期的に購入している。)突き詰めれば、「自分が楽しくないことには一秒たりとも時間を使わない生き方」の話であり、それなりに共感できるものであった。しかし、現実として彼が「ワクワクしないからやらないよ」と言っている数多のことを行なっている大多数の人がいるから世の中は回っているわけではあり、その辺りは最終的には人生に対してどれくらいのリスク許容度があるのか、という話になることだなあ、とか考えながら読んでいた。ふと考えると、「リスクを取れ!」という本は数多あるが、「リスクを取るな!」という本は本当に少ない。それくらい人間はリスクを取らない生き物なのだろう。もしくはリスクを取る生き方をさせる過程で、自分の商売に誘導して儲けようという輩が後を絶たないのであろう。

 

では自分はどうするのか、というところではあるが、まずは少なくとも自分の"資産"になることに日々の時間を使って行こう、と思う。自分にとっては特に学びがなくなったルーティーンはできる限り部下に権限移譲し、新しいことにチャレンジをし、学び続ける。インプットとアウトプットのバランスをしっかりと考えて行動する、など。そして自分にとって楽しい時間をできる限り増やすこと。家族と遊ぶ時間や、友人ととりとめのない話をする時間、そして自分が没頭できる趣味に使う時間。言葉にするとまあそうだよね、という内容だが、特に仕事が忙しいと忘れがちである。それほど習慣が持つ力は強大であり、思考停止は死と同義である。自分の人生を環境に明け渡すことになるのだから。

 

それにしても自分の人生はなんと自由なことか。明日はまだ何も決まっていないのだから。

初稿によせて

これまでも何度かブログを書いたことはあったが、いずれも続かなかった。そのときに書いたものは、今も広大なネットの海のどこかで、奇特な人に見つけてもらい、読まれたりもしているのだろうか。

歳を重ねるごとに、自分が思うことや考えたことを、確りとどこかに残しておきたいと考えるようになった。自分が生きた証のようなものを、粛々と。

誰かのためにならなくても良いが、なれば幸いである。

私はここで確かに生きていて、少しでも自分の人生を価値あるものにしようと、考えているのだ。これからもずっと。